映ちゃんの“映画に乾杯!”

気に入った映画のおススメ記事です。と、いっても、最新の映画は登場しません。 それはもぉ~、ふる~い、ふる~い映画ばかり。でも、イイ映画、オモシロイ映画であることだけは、これはゼッタイの自信をもって、断言いたします!

スター・ウォーズ・ジョーク

ダース・ベイダーとヨーダがゴルフをした。
ベイダーがバンカーからチップ・インすれば、ヨーダは長い距離のパットを一発で仕留めた。また、ヨーダが第三ホールでホールイン・ワンを決めれば、第六ホールでベイダーはアルバトロスを達した。
信じられないようなスコアでハーフを終えたあと、ヨーダが云った。
「どうかね、ベイダー。今度はフォースなしでやろうじゃないか」

『王様と私』(1956年)

はい、みなさん、こんばんは。

今日は、『王様と私』、この映画のお話、しましょうね。

『王様と私』、これは、もともとは、ブロードウェイのミュージカルとして、発表された作品ですね。

ブロードウェイのミュージカルとして発表されて、ブロードウェイの舞台で上演されて、それで、それがあんまりにも素晴らしかったので、これを映画にしよう、映画にしよう、云うて、映画化されたのが、この、『王様と私』ですね。

これが映画になる前、ブロードウェイの舞台で上演されてたとき、王様の役を演じていたのが、ユル・ブリンナーですね。

このユル・ブリンナーが、とっても素晴らしかったので、映画にするときでも、あの王様はユル・ブリンナーじゃなくちゃいかん、ユル・ブリンナーこそ、あの王様だ、なんて云って、映画でも、この王様を、ユル・ブリンナーが、演じることに、なったのね。

それで、この王様になったユル・ブリンナーが、その演技が、とっても素晴らしかったので、ユル・ブリンナーは、この映画で、1956年(昭和31年)のアカデミー主演男優賞を獲得しました。

まぁ、ほんとうに、ユル・ブリンナーの王様か、王様のユル・ブリンナーか、そんなふうになったのね。

そんなわけで、ユル・ブリンナー、この王様役で、いっぺんに有名になったんだけど、さぁ、困ったことができた。

それは、ユル・ブリンナーは、この王様役を演るのに、東洋の、いかにも、東洋風の、そんな、エキゾチックな雰囲気をだそうとして、頭を、ツルツルに剃ったのね。

頭をツルツルに剃って、スキン・ヘッドにして、いかにも、東洋風な、王様の雰囲気をだそうとしたのね。

それが受けて、大いに受けて、みんなが拍手喝采して、そのツルツル頭、スキン・ヘッドが、とうとう、ユル・ブリンナーの、トレード・マークになっちゃったのね。

それでとうとう、ユル・ブリンナーは、髪を生やせなくなったのね。毎日毎日、お風呂で、自分で、頭の毛を剃って、ツルツルにしてたんですね。

それで、ユル・ブリンナーと云えば、ツルツル頭、ツルツル頭と云えば、ユル・ブリンナー、それくらい、有名になったのね。

その、ユル・ブリンナーを有名にした『王様と私』、これは、本当にいた王様、昔のシャム、現在のタイに、実在した王様を、モデルにしてるのね。

その王様は、ラーマ4世と云って、まぁ、マーガリンみたいな名前だけど、これがとってもすごい、とっても偉い、王様なの。

この人は1851年から1868年まで、タイの王様だった人なんですね。

1851年と云えば、中国では洪秀全の太平天国の乱が起こり、フランスではルイ・ボナパルト、後のナポレオン三世がクーデターを起こして、日本では2年後に、ペリー提督の率いるアメリカ合衆国艦隊、いわゆる黒船が来た頃なのね。

そして1868年と云えば、日本は王政復古して、明治維新政府が出来た年なのね。

まぁそんな物騒な時期、そんな大変な時期に、この人は、国王だったのね。

それで、世界的にそんな物騒な時期に、この人は、タイも、いつまでもこのままじゃいかん、西洋文明のよいところを採り入れて、国を新しくしなくちゃ、なんて思って、イギリスと通商条約を結んで自由貿易を進めたり、仏教を近代風に改革したり、農商業を励行して生産を増やしたりしたのね。

そんな改革のなかで、これからは、王子や王女たちにも、西洋風の教育をしなくちゃならん、云うので、イギリスから、家庭教師を招くのね。王子や王女たちの教育を委せる、家庭教師を、イギリスから雇うの。

そうしてやってきたのが、アンナ・レオノーウェンズ云う人なのね。

この人がそのときのことを小説に書いた『アンナとシャム王モンクット』と云うのが、ミュージカルになって、『アンナとシャム王』になって、これが、シャム王の、ユル・ブリンナーが、あんまり素晴らしいので、最初は、家庭教師のアンナが主人公だったんだけれども、ユル・ブリンナーがあんまり素晴らしいので、主人公が逆転して、王様が主人公になっちゃって、『王様と私』になって、ついにとうとう、映画にまで、なったんですね。

この『王様と私』の場面で、すごく好きな場面があるの。
それは、王子や王女たちに、アンナが、雪のことを教えてる場面。

アンナは、王子や王女に、雪のことを教えるんだけど、ここは、タイの国、熱帯の国、そんなの、見たことない、そんなの、聞いたことない、みんなそう云うのね。

王子や王女は、まだこの先生に、アンナに、反撥してて、この先生を困らせてやろう、そう思ってるのね。

それで、

「先生は嘘つきだ、先生は嘘つきだ、そんな白いのが、空から降ってなんか、来るもんか」
そう云って、みんなで、先生を、アンナを、困らせるのね。

教室が騒然となって、アンナが困ってるとき、王様が入って来るの。王様が、ユル・ブリンナーが、さて、子どもたちはちゃんと勉強してるかな、なんて思って、教室に入って来るの。

そしたら、教室が騒がしい、王子や王女が騒いでる、アンナが困ってる、いったいどうしたんだ、訳を訊いてみると、

「お父さん、お父さん、アンナは嘘つきだよ、アンナは嘘つきだ。空から白いものが降って来るって云うんだ。そんなの嘘だよね」

云うんですね。

王様が、ユル・ブリンナーが、アンナに訊いてみると、

「雪のことを説明してたんです……」

云うんですね。

すると、ユル・ブリンナーは腕を組んで

「雪か。ウン、昔、若い頃に見たことがある。山の上にある、白い、帽子のようなものだったな」

云うんですね。

そしたら子供たち、王子や王女たちが、

「ほら、やっぱり先生は、アンナは嘘つきだ。そんな山の上にあるもんが、降ってきたりするもんか」

騒ぐんですね。

そしたら王様が、ユル・ブリンナーが、

「静かにしなさい」

云うて、王子や王女たちを、叱るんですね。

そして、

「知らないことを教えてもらうからこそ、学ぶんだ。知ってることだったら、学ぶ必要はない」

云うんですね。

いいセリフですね。素晴らしい言葉ですね。

学ぶこと、知ること、教えてもらうこと、そのことに、どれだけ謙虚になってるのか。

知ることはずばらしいこと、いままで自分が知らなかったことを知ること、教えてもらうこと、それがどれだけ、素晴らしいことか、素敵なことか、それを教えてくれるのが、どれだけありがたいことか。

いまの日本の教育は、この根本がないんじゃないか、そんな風に思いますね。

この場面の後で、いかにもミュージカルらしく、ユル・ブリンナーの歌が始まるんですね。

その歌は、

「いままで自分が信じてきたことは何だったのだ。いままで自分が信じていたこと、それが覆ってしまった。しかし、いままで自分が信じていたことの方が間違いで、いま教えられたことのほうが正しいように思われる。いままでのわたしはなんだったのだ」

云うんですね。

これはすばらしいですね。いままでの自分は間違っていた、と、認める、勇気がありますね。新しいことを学ぼう、知ろう、とする、度胸がありますね。

素晴らしい場面ですね。

そして、この王様は、イギリスと通商条約を結んで、イギリスからアンナを家庭教師に招いて、いかにも西洋風な王様なように思われますけど、心の底には、やっぱり、昔風の、タイの、東洋風の、考えが、残ってるんですね。

そんな王様を、なんとか、西洋風の、文明的な王様にしたい、アンナは、この王様を、だんだん、だんだん、好きになっていって、そんな風に思うように、なるんですね。

そこで、アンナは、この王様を、ダンスに誘うんですね。

ダンス、と、云っても、社交ダンス、そんなんじゃないの。

とっても素晴らしい、本当に、いかにも人間らしい、本当に素敵なダンスなんですね。

「思い浮かべてごらんなさい。

 星々がまたたく、静かな夜。

あなたの腕に抱かれたいと思う女が、精一杯美しく着飾って、あなたの前にいる。

あなたは正装して、彼女を迎えている。

聞こえるでしょう? 胸の高鳴りが。

あなたは優しく彼女の肩に手をまわし、

彼女はあなたの腰に手を添える。

さぁ、踊りましょう。

ふたりで愉しく、踊りましょう」

そうして、あの有名な、“Shall we dance”のメロディーが流れるんですね。

このダンスが、素晴らしいのね。

アンナは、イギリスの上流の婦人。ダンスの作法も礼儀も知ってる。

でも、王様は、古い、古い、シャムの王様。

王様はステップもターンも知らない、力強い、野性的な、バーバリズムそのもの、それでも、音楽に合わせて、いかにも、愉しそうに、ダイナミックに、踊るんですね。

そして、踊ってるうちに、なんとも云えん愉しい気分になって、とっても素敵な気分になって、

「あぁ、これが、西洋文明だ。これが、西洋文明の、すばらしさだ」

なんて、思うんですね。

イイですね。素晴らしい場面ですね。

堅苦しい学問、歴史とか、物理とか、化学とか、数学とか、文学とか、そんなんじゃなくて、音楽、ダンスで、西洋の文化の、いちばん大事な、いちばん素晴らしいところ、人間は、みんな同じ人間なんだ、王様も、家庭教師も、西洋の人間も、東洋の人間もない。人間はみんな同じ。男も、女も、王様も、農民も、商人も、貴族も、みんな、みんな、音楽聴けば、愉しい気持ちになって、仕合せな気分になって、みんなウキウキして、踊りだしたくなるんだ。それはとっても、すばらしいことなんだ。それを解らせてくれる、とっても、すばらしい場面なのね。

この映画の最後、ラスト・シーン、ユル・ブリンナーの王様は、病気になって、床に着いて、もうダメ、もうダメ、いよいよ、この王様も、息を引き取る、そんな最後のシーンに、この、ユル・ブリンナーの王様は、長男をベッドの傍に呼び寄せて、

「これからはおまえが王様だ。おまえの思ったとおりにやりなさい」

なんて、遺言するのね。ユル・ブリンナーの王様はまだ生きてるけど、そう云うのね。

そしたら、この、新しい王様、ユル・ブリンナーの王様の長男が、新しい王様だ、これからはこの人が王様だ、云うんで、兄弟姉妹が、みんな、跪くのね。

跪いて、この新しい王様、自分たちのお兄さんに、敬意を表すのね。

自分たちのお兄さんだけど、王様だ、王様だから、敬意を表して、跪かなきゃならない、みんなそう思って、跪くのね。

そしたらこの王子は、新しく王様になった、この王子は、アンナから、西洋風の教育を受けてるから、そんなのおかしい、そんな、兄弟姉妹が、同じ兄弟姉妹に跪くなんておかしい、そう思うのね。同じお父さん、お母さんから生まれた、同じ兄弟姉妹じゃないか。

一緒に遊んで、一緒にケンカして、一緒に勉強して、一緒に泣いて、一緒に笑って、一緒にいた兄弟姉妹じゃないか。

なのになんで、その兄弟姉妹を、跪かせなきゃいけないのか。

でもそれが、昔からの、タイの、風習、しきたりなのね。

新しく王様になったその子は、ベッドの上で、病気になって、死にそうになってるお父さん、ユル・ブリンナーのほうを見るんですね。

そしたら、ユル・ブリンナーは、死にそうになりながら、死の床から、

「これからは、おまえが王様だ。おまえが思うようにやりなさい」

云うのね。

そしたら、その新しい王様、まだ幼い、その王様は、

「みんな、立つんだ。跪く必要なんてない。

 ぼくらは同じ人間じゃないか。

 同じ人間が、同じ人間に、跪く必要なんてない」

そう云うんですね。

そう云って、ふっと、お父さん、死にかけてる、ユル・ブリンナーのほうを見るんですね。

やっぱり、ちょっと、気になってるんですね。

そしたら、ユル・ブリンナーは、いかにも、満足したような、いかにも、嬉しげな表情を浮かべるんですね。

アンナも、傍にいて、いかにも、嬉しそうに、微笑んでるんですね。

そうして、王様は、この、ユル・ブリンナーの王様は、静かに、息を引き取るんですね。

そんなわけで、この『王様と私』、この映画は、ミュージカル、ミュージカルの傑作だけど、それだけじゃなくて、とっても素晴らしい映画、とっても素敵な映画、とっても、とっても、素晴らしい、とっても、とっても、素敵な映画ですよ。

そんなわけで、この素晴らしい映画、この素晴らしいミュージカル映画、1956年(昭和31年)の、『王様と私』、ぜひ、ごらんなさいね。


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デボラ・カー
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2016-01-20

『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』

はい、みなさん、こんばんは。
あら、まだ、お昼ですって。
ごめんなさいね。わたし、この原稿書いてるときは、夜なもんで、つい、「こんばんは」なんて、云っちゃうんですね。ごめんなさいね。
さて、今日は、「文化の日」、文化の日、と、云うわけで、今日は、みなさん、お休みね。
お仕事なさってるかたもいらっしゃるかもしれないけど、本当は、今日は、お休みなのね。休日、祝日なのね。
どうして今日は、祝日で、お休みなんだろう。
それは、政府が、お上が、“今日は祝日だ。みんながお仕事休んで、お休みして、今日のこの日を、みんなで、お祝いするんだ”って、決めたのね。法律で、そう決めたのね。「国民の祝日に関する法律」って云う法律で、そう決めたのね。
それで、その法律で、今日、11月3日は、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」日だって、決めたのね。
そんなわけで、今日は、自由と平和のありがたさを噛み締めて、文化の素晴らしさを、あらためて感じて、これからも、自分たちの子どもや、孫や、ひ孫や、やしゃ孫や……、ずっと、ずっと、後々まで、この大切な、大切な、自由と、平和と、文化とを、伝えていこう、伝えていかなくちゃいけない、そんなことを考える日なのね。

ですから今日は、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、この映画のお話、しましょうね。
 『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、これは、1984年、昭和59年に公開された、アニメ映画、アニメーション映画ですね。
は、はあ、アニメ、なんだ、子供向けの映画か。
あら、あなた、ずいぶん古いこと、おっしゃるのね。まあ、いまどきそんなこと云う人、めずらしいね。骨董品、古代の遺跡、世界遺産、天然記念物、絶滅危惧種、ね。
 あら、あなた、怒ったの? ごめんなさい、でもこれ、ほんとうのことですよ。
 いまやアニメは、日本を代表する、立派な、立派な文化、日本が世界に誇る、立派な、立派な、文化ですよ。
 いえ、いまや、じゃないね。むかしから、アニメは、日本の、素晴しい、素晴らしい文化だったの。ただだれも、そのことに、気づかなかったのね。残念ね。貧しいね。アニメの素晴しさを分からない心性、貧しいね。悲しいね。

それ で、この『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、これは、テレビで放映された作品の映画化なのね。テレビで毎週放映して、評判よかったんで、よっしゃ、映画にしよう、云うて、映画になったのね。あのころはそんなアニメ映画、たくさん、あったのね。
 『ルパン三世』もそうでした、『うる星やつら』もそうでした。あの頃はまだ、映画だけで、映画の企画だけで、アニメーションつくろうなんて、そんな時代じゃなかったのね。
 でもそうやってつくられた映画は、テレビとは別の、それ自身で完結した、それ自身で立派な、みごとな、みごとな、映画になってるのね。そのへんに、映画をつくった人たちの、心意気が見えますね。魂が感じられますね。
 この映画もそう。この映画も、それ自身だけで独立した、テレビ観てなくても解かる、テレビ観てなくても面白い、それ自身だけで完結した、素晴らしい映画になってますね。

この映画は、宇宙が舞台で、宇宙を舞台に、戦争してるの。
 地球人たちは、地球に住めなくなって、宇宙に出て、宇宙を彷徨って、でもいつか、自分たちの故郷、地球に還ろうとして、宇宙を彷徨ってるのね。
そんな地球人たちが乗ってる、大きな、大きな宇宙船が、“マクロス”、云うのね。この映画の、タイトル・ロールね。
そんな地球の人たちは、宇宙を彷徨いながら、戦争してるの。その相手が、とっても、とっても大きな人種。その大きな人種が、二種類、いるのね。
一方は、ゼントラーディって云って、これは男ばかり、男の人ばっかりの宇宙人なの。
で、もう一方は、メルトランディって云って、こっちは女ばかり、女の人ばっかりなの。
地球人は、この二つの種族と戦ってるんだけれども、この二つの種族──ゼントラーディとメルトランディも、おたがいに戦ってるのね。まぁ、複雑ね、ややこしいね。
で、地球人は、戦闘機に乗って、闘うのね。これが、戦闘機、飛行機なんだけれども、ロボットにもなるの。その頃流行った言葉で云えば、“モビル・スーツ”になるのね。

余談だけれども、「ロボット」云うのは、チェコの、チェコスロヴァキアの劇作家、カレル・チャペック云う人が、造った言葉なのね。
チャペックは、チェコ語の「ラボル」云う言葉をもじって、「ロボット」云う言葉を造ったのね。
「ラボル」云うのは、「労働」云う意味。人間に替って、人間の替りに、しんどい労働する人造人間、それが、「ロボット」なのね。
だから、鉄腕アトムや、ドラえもんは、ロボット、ね。
でも、マジンガーZや、コンバトラーVなんかは、ロボットじゃないんですね。
人間が乗り込んで、人間が操る、人間みたいな恰好をした機械ですからね。
それで、人間が乗り込んで、人間が操る、人間みたいな恰好をした機械のことを、“モビル・スーツ”云うようになったんですね。
この“モビル・スーツ”云う言葉は、『機動戦士ガンダム』で、初めて使われたんですね。
それまでは、人間が乗り込んで、人間が操る、人間みたいな恰好をした機械のことも、“ロボット”云うてたのが、この『機動戦士ガンダム』以来、“モビル・スーツ”云うように、なったんですね。

それで、この映画で、この『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』では、“バルキリー”云う、戦闘機、飛行機なんだけれども、これが、人型の、“モビル・スーツ”にもなるのね。
その“モビル・スーツ”を操って、地球人は、ゼントラーディや、メルトランディーと、闘うのね。
その闘い、その戦闘のときに、地球人のひとりが、ゼントラーディに捕まって、捕虜にされて、地球人のこと、訊かれるんですね。尋問、されるんですね。
そのとき、地球人が、人間が産まれることを説明するんですけど、それが、ゼントラーディの人たちには、解からないのね。
「産まれるとは、生産されることか?」
なんて、云うんですね。
まぁ、悲しい、なんて、悲しいことなんでしょう。
人間が産まれる、新しい生命が芽生える、愛し合って、愛し合った人たちの間に、新しい生命、新しい生命が誕生する、素晴らしい、とっても素晴らしいことなのに、それを、「生産される」なんて、まるで、機械を製造するみたいに……。
でも、それが、ゼントラーディの人たちの考えなんですね。闘うためだけに存在する種族、闘うことだけが存在意義である種族、そんな種族には、「産まれる」と云う思いなんか、ないんですね。「生産される」と云う考えしか、ないんですね。悲しいですね。とっても、悲しいことですね。

ゼントラーディの人たちは、地球人が持ってた、オルゴール、スウィッチを押すと、音楽が流れ出す人形を、とっても、恐がるんですね。
戦闘のことしか知らない、戦争することしか知らない、ゼントラーディの人たちは、なんでこんな機械があるのか、解からないんですね。
なんでそんな機械が、オルゴールなんてものがあるのか、なんでそんなものが必要なのか、理解できないんですね。
でも、その機械から流れてくる音楽、そのメロディを聴くと、自分たちの戦闘意欲、戦争しよう、敵をぶっ殺そう、そんな気もちが萎えてくる、戦闘意欲が、相手をぶっ殺そう、そんな気もちが消えていく、それは、理解するんですね。
それで、ゼントラーディの人たちは、これは、兵器だ、音波兵器だ、俺たちの戦意を殺ぐために造られた、地球人独特の兵器に違いない、なんて、云うんですね。

この映画には、たくさんの、たくさんの、ほんとうに、ほんとうに、素晴らしい人たち、とっても、とっても、ステキな人たちが登場するんですけれども、主人公は、一条輝と云って、バルキリーのパイロットなんだけれども、まだまだ青二才、未熟なのね。
その一条輝が憧れているのが、アイドル歌手のリン・ミンメイ。
この一条輝は、ふとしたことがきっかけで、このリン・ミンメイと仲良しになって、ふたりでデート、するのね。それが、いかにも若者の、いかにも、愉しげなデートなの。
ショッピングして、ゲーム・センター行って、夕暮に公園行って、ふたりで愉しい時を過ごすのね。いかにも、ミーちゃん、ハーちゃんした、いかにも、愉しげなデートなのね。

一方、輝には、女の人の上官がいるのね。早瀬未沙って云って、この人が、美人なんだけれども、とってもコワイ、とってもコワイ、とっても厳しい人なの。
それで、よく輝とも、ケンカになるの。
「なんだよ、あの女」
「なによ、あのひよっこ」
なんて、ケンカになるのね。
そのふたりが、とある戦闘で敵にやられて、味方のところに帰れなくなって、漂流することになるのね。
そのふたりが漂流した先が、これがまぁ、なんとも荒れ果てた星、宇宙から見捨てられたような星、ゴースト・タウンのような星、そんな星に、流れ着くのね。
それで、ふたりで、この星は、なんて星なんだろう、こんな、見捨てられたような星、この星は、どんな星なんだろう、そう思って探っていくのね。

この対比、この二人の女の子と、男の子、輝との、デート、道行、その対比が、いかにも、巧いんですね。上手なんですね。達者なんですね。
ひとりは、みんなのアイドル、いかにも、ミーちゃん、ハーちゃんした、キャピキャピした女の子。
もうひとりは、軍人、いかにも、シッカリした、カタブツの、上官の、女の子、女の子、と、云うよりも、女の人、オトナの女性。
輝は、この、まだまだ未熟な男の子は、憧れていたアイドルの女の子とデートできて、コワイ、コワイ、キビシイ、上官の女の人と彷徨って、まぁ、形の違った二人の女性と、形の違った、時間を過ごすんですね。
 このへんの演出、シナリオが、巧いね、上手だね、達者だね。

輝は、この、未熟な、いかにも、坊ちゃん、坊ちゃんした、男の子は、コワイ、コワイ、いつも、喧嘩ばっかりしていた、年上の、女の、上官と、流れ着いた星を、この星は、いったい、どんな星なんだろう、そう思って、二人で一緒に、この星を探検しているうちに、じつは、この星こそが、マクロスの住民たちが、マクロスのみんなが、恋焦がれていた、いつか帰るんだ、って、思っていた、地球だった、って、解かるのね。
そこで、だんだん、いろんなことが解かってくるの。
ゼントラーディも、メルトランディも、じつは、異星人、宇宙人なんかじゃなくて、自分たちと同じ、人間だ、って、解かるのね。
昔々、人間が戦争してた頃、相手よりも強い兵士を造ろう、強い兵士を製造しよう、云うんで、遺伝子を操作して、ドーピングして、造り上げたのが、男はゼントラーディ、女はメルトランディ、なんですね。
まぁこの二種族とも、人間が、戦争のために、戦争に勝つために、自分たちを操作して、造りだしたんですね。非道いね。非道いことするね。
そんなに、戦争することって、競争することって、勝つことって、大事なことなんでしょうかね。

その競争が、戦争が、戦闘が、だんだん、だんだん、激しくなって、しだいに、しだいに、激烈になって、激しくなって、地球人たちも、必死に戦うんだけども、だんだん、だんだん、追いつめられて、追いつめられていって、もうダメ、もういかん、もう負ける、そうなったときに、相手は音楽を聴くと、戦闘能力が鈍る、音楽聴くと、戦意が落ちる、そのことが解かって、マクロスの軍人たちは、音楽を流そう、音楽を流して、相手がひるんだ隙に、総攻撃をかけよう、そう思うのね。
それで、ミンメイに、歌ってくれ、云うて、頼むのね。

ミンメイは、輝のことを好きになって、好きになって、好きになって、もうたまらんくらい好きになって、輝が戦争に行くのを嫌がるのね。
輝が戦争に行って、万一敵に殺されたら、死んじゃったら、……そんなことを考えるだけでも、ゾッとして、恐ろしくなって、怖くなって、悲しくなって、涙が出てきて、もうどうにも、やりきれなくなるのね。
 それで、
「みんないなくなればいい。みんないなくなったら、戦争もしなくてすむ。殺し合いなんかしなくてすむ。輝と私だけいればいい」
なんて、云うのね。
まぁそれほど、この娘は、ミンメイは、輝のことを、好きになったのね。惚れ込んじゃったのね。
そのミンメイを、輝は叱るのね。
「だれも殺し合いなんてしたくない。だれも死にたくないし、死なせたくないんだ。
 ぼくはそのために、精一杯、自分にできることをするんだ」
 その言葉を聞いて、ミンメイも決心するのね。
 自分は歌う。歌うことが、自分の役目なのだから。自分が歌うことで、みんなに勇気を与えられるのなら。みんなの力になれるのなら。自分が歌うことで、みんなが戦争やめて、殺し合いやめて、しあわせになれるのなら……。
だったら、自分は歌う。自分のためだけじゃなくて、輝のためだけじゃなくて、みんなのために、歌うことが、自分の使命なのなら……。
そう決心して、マクロスの、巨大戦艦の先頭に立って、歌うのね。
その歌が、『愛 おぼえていますか』ですね。
これがとっても素晴らしい歌、とってもステキな歌なんですね。

みなさん、おぼえてますか?
はじめて、好きな女の子と、あるいは、男の子と、手をつないで学校から帰ったときのこと
目を見交わせて、恥かしくて、思わず目をそむけてしまったときのこと
ドキドキしながら、「好きです」と云った、あのときのこと……

それが愛の始まり、それが、人間が、人間を慈しむ、大事に思う、その、始まりなんですね。

ミンメイが、一生懸命、この歌を歌って、みんなが突撃して行って、それでも戦況が地球人に不利になったとき、あぁ、もうダメだ、ゼントラーディには勝てないんだ、そう思ったとき、その、ゼントラーディの一部隊が、地球人の味方に付くんですね。
自分たちの同胞を、仲間を、味方を、裏切って、地球人たちの側に付くのね。
地球人の総司令官が、感謝しながらも戸惑って、驚いて、サンキュー、サンキュー、ありがとう、なんて云っても、驚いて、ワケが解からなくて、なんで味方してくれるんですか、云うのね。
もっともね。負けそうになってる地球人に味方しても、自分たちの仲間裏切っても、なんのメリットもないわね。
でもそのとき、ゼントラーディの副官、参謀が、云うんですね。
「この偉大な、“文化”を、失うわけには参りません」
 まぁ、なんて素晴しい言葉なんでしょ。本当に素晴らしい、歴史に残る、素晴らしい言葉ですね。

 遥かな昔、紀貫之は、『古今和歌集』の仮名序に、こう記しました。
「生きとし生きるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり」
まさに、歌とはこれ、文化とはこれ、ですね。
 “文化”なんて、なんのことか分らない、オルゴール聴いても、音楽聴いても、音波兵器としか思わない、思えない、そんなゼントラーディの人たちをも、ミンメイの歌は、感動させて、心動かして、自分たちには分らないけれども、このとっても素敵な、このとっても素晴らしい、“文化”と云うものを、衛らせようとするのね。
 いまだに戦争に明け暮れて、戦闘能力を強化しようとして、戦争のことばっかり考えて、どうやって相手を打ち負かそうか、そんなことばっかり考えている国民なんて、ほんとうに、ほんとうに、恥かしいね。まるで、ケダモノね。おぞましいね。

 この『愛 おぼえていますか』云う歌、これは、じつは、早瀬未沙が、輝と一緒に地球を放浪しているときに見つけたものなんですね。
それはどんな歌なんだい、と、聞かれた未沙は、
「むかし流行った、なんの変哲もない、ラブソングよ」
 云うんですね。
 これが、いいんですね。
 文化、文明、芸術、それはなにも、バッハやモーツアルト、ベートーヴェン、ピカソやゴッホや、モネやマネ、シェークスピアやバルザック、ゲーテやトルストイ、そんなんじゃ、ないんですね。それも立派な、文化、文明、芸術なんだけれども、それだけじゃ、ないんですね。
ヒットして、一年で消えてしまう、そんな音楽にこそ、そのときに生きた、そのときに笑い、悲しみ、はしゃぎ、ケンカし、落ち込み、殴り合い、仲直りした、友だちと一緒に自転車こいで家に帰った、学校サボって映画観に行った、空地で野球した、下校中の喫茶店で、好きな男の子や、女の子たちの話題で盛り上がった、道路で鬼ごっこした、そうした、そのときに、精一杯生きた人たち、その人たちの想いが、つまってるんですね。
それこそが、“文化”なんだ、それこそが、人間が、人間として存在している、いちばんの理由なんだ、そのことを、この映画は、教えてくれるんですね。
この素晴らしい映画、とっても、とっても、ステキな映画、この『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』、ぜひ、ご覧なさいね。

https://www.youtube.com/watch?v=L6ItZbHKEBY











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